零れ話
ポッと浮かんだ話を無責任に投下。
婚約解消時の小話
「待って下さい、ラオ兄様」
普段なら淑女として己を律している少女が、スカートの裾が翻るのも構わず、兄と慕う青年を大声で呼び止める。
足を止めた青年、ラオフェントは、少女を見て苦笑を浮かべた。
「こらこら、フィー。淑女がそんな風に走ってはいけないよ」
ラオフェントに追い付いた少女、フィリネグレイアは眉間に皺を寄せ、ラオフェントを睨んだ。
「今、ラオ兄様を逃がしたら、次は何時お会い出来るか分かりませんから。焦っていつもなら絶対にしない事をしてしまっても、それは仕方のない事だと思います。それに、他に人がいる時はきちんと早歩きで来ましたからご心配なく」
フィリネグレイアの返しにラオフェントはカラカラと笑った。
「少し会わない内にまた口が上手くなったみたいだね」
フィリネグレイアは溜息をついて左手の人差し指と中指をこめかみに当てた。
自分が何の為にラオフェントを追いかけて来たのか分かっているだろうに、直ぐに自分の用件を聞こうとしない。
のらりくらりとかわそうとするラオフェントに溜息が出た。
「ラオ兄様、どうして私との婚約を破棄する事にしたのか、詳しく説明して頂けますか」
「さっき話した通りだよ」
「あれだけで私が納得するとお思いになっているというのでしたら、ラオ兄様は随分と私を軽視されていたという事ですね。私、非常に悲しいです」
怒りを前面に押し出して、フィリネグレイアは言った。
ラオフェントは彼女の怒りを受けても、変わらず穏やかな声音で言う。
「君を軽視しているわけないじゃないか。フィーは私にとって大事な人だよ」
「それでしたら、どうして私との婚約を破棄なさるのですか?」
ラオフェントとフィリネグレイアは両家の繋がりを強めるために幼い頃に婚約を交わしていた。来年にはフィリネグレイアは女学校を、ラオフェントは国立学院を卒業し、その半年後に結婚する予定になっていた。
久しぶりにオイネット家にラオフェントが訪れ、フィリネグレイアは彼と一緒に父親から2人の婚約を破棄することを告げられた。
ラオフェントと結婚するのだと思っていたフィリネグレイアは心底驚いた。
理由を聞けば、ラオフェントが神官になるためだという。
ラオフェントの実家は長年優秀な武官を輩出してきた名家で、彼も幼い頃から国軍に入ることを目標に、日々鍛錬に励んでいた。
だというのに、卒業を目前にして武の道から外れ、神に仕える神官になると言い出したラオフェントの変化に、フィリネグレイアは大きく戸惑っていた。
何が彼を変えてしまったのだろう。
それが何なのか、知らなければならないような気がして、フィリネグレイアの胸はざわついて仕方がない。
「うーん。どういえば納得してもらえるかな」
ラオフェントは苦笑を浮かべつつ、フィリネグレイアに伝えるべき言葉を探す。
「私たちはずっと、用意された道を歩いてきた。その事に不満もなく、自ら進んで差し出されたものを受け取ってきた。けれど、私は自分の進む先にあるものに対して、不満を持ってしまったんだよ。だから、私は別の道を選ぶことにした。軍に入るのではなく、神官になる道をね。」
ラオフェンとはしっかりとフィリアの目を見据えて言う。
分かっていたのに、彼からの今まで進んでいた道を否定する言葉に胸が痛んだ。
「ラオ兄様は、軍に入るのが嫌になったのですか?」
視線が揺れて、しっかりと定まらず、目の前に立っているラオフェンとを見ているはずなのに、フィリネグレイアは彼の姿がはっきりと認識することが出来ない。
声が震える。
「私との結婚も」
「フィー、君は私にとってとても大事な人だよ。婚約を破棄しても、それは変わらない」
フィリネグレイアも、婚約を破棄したくらいでラオフェントとの関係が崩れてしまうなどありえないと分かっている。それでも、長年フィリネグレイアの中にあった、彼との婚約は彼女を形作る柱の一つだ。それが奪われてしまうことに、彼女は恐怖を感じていた。
「私のわがままを君に押し付ける形になってしまうが、私はフィーにも自分で選んだ道を歩んでほしいんだ。フィーには多くの可能性が眠っている。それを私との結婚で潰してしまうのはとても惜しい。だから、君は今いる場所から飛び出して、外に目を向けてもらいたい。私と結婚して家庭を守るという、君自身が己に課した檻を壊して」
「ラオ兄様。その言葉は私の生き方を否定されているように聞こえるのですが」
「私はフィーに他の生き方にも目を向けてほしいと思っているだけだよ。そして、新しい道を歩めるだけの強さを君は持っているとも思っている。なんせ、私の大事な妹分だからね」
そんな言い方はずるいとフィリネグレイアは思った。
私だから大丈夫なんて期待をされたら、それに応えてしまいたくなる。自分の大事な人であればあるほど、彼らの好意を胸を張って受け止められる人間になるために。
深く息をはいて、心を落ち着かせる。
しっかりとこちらの目を見て話すラオフェントには迷いが無い。
ラオフェントは決意していしまったんだと、フィリネグレイアはようやく納得した。
もう、彼と共に歩む未来はないのだと。その事をフィリネグレイアは受け入れるしかないのだと。
「たまにはお会い出来ますか?」
「もちろん。しばらくは数年置きになってしまうだろうけれど、会いに来るよ」
ラオフェントの返答に、フィリネグレイアは笑顔を浮かべた。
婚約破棄の話をしてから初めてフィリネグレイアが素直に笑ったことに、ラオフェントは心の内で安堵の溜息をついた。
ラオフェントにとって、フィリネグレイアはとても大事な人だ。
幼い頃から彼女の双子の兄と共に多くの時間を共有してきた。
だからこそ、彼女が仕舞い込んでしまっている感情にも気づいた。
せっかく生まれた彼女のその思いを、彼女自身が認識せずに押し殺してしまっている事にも、気づいてしまった。
どうしたものかと悩んでいた時にもらった誘い。
良い機会だと思った。
フィリネグレイアは外の世界に目を向けるべきだ。彼女が自ら入っている箱の中から出れば、きっと驚くほど多くのものを吸収して大きく成長するだろう。
それは決して幸せなことばかりではなく、辛く悲しいことも多くあるだろう。苦境に立たされる彼女を守る役割を、自分はもう果たせない。なにより、自分よりも彼女の世界を守ってくれる存在をラオフェントは知っている。
自分との未来よりも、必ず彼女は幸せになれる。
この時のラオフェントは、そう、確信していた。
普段なら淑女として己を律している少女が、スカートの裾が翻るのも構わず、兄と慕う青年を大声で呼び止める。
足を止めた青年、ラオフェントは、少女を見て苦笑を浮かべた。
「こらこら、フィー。淑女がそんな風に走ってはいけないよ」
ラオフェントに追い付いた少女、フィリネグレイアは眉間に皺を寄せ、ラオフェントを睨んだ。
「今、ラオ兄様を逃がしたら、次は何時お会い出来るか分かりませんから。焦っていつもなら絶対にしない事をしてしまっても、それは仕方のない事だと思います。それに、他に人がいる時はきちんと早歩きで来ましたからご心配なく」
フィリネグレイアの返しにラオフェントはカラカラと笑った。
「少し会わない内にまた口が上手くなったみたいだね」
フィリネグレイアは溜息をついて左手の人差し指と中指をこめかみに当てた。
自分が何の為にラオフェントを追いかけて来たのか分かっているだろうに、直ぐに自分の用件を聞こうとしない。
のらりくらりとかわそうとするラオフェントに溜息が出た。
「ラオ兄様、どうして私との婚約を破棄する事にしたのか、詳しく説明して頂けますか」
「さっき話した通りだよ」
「あれだけで私が納得するとお思いになっているというのでしたら、ラオ兄様は随分と私を軽視されていたという事ですね。私、非常に悲しいです」
怒りを前面に押し出して、フィリネグレイアは言った。
ラオフェントは彼女の怒りを受けても、変わらず穏やかな声音で言う。
「君を軽視しているわけないじゃないか。フィーは私にとって大事な人だよ」
「それでしたら、どうして私との婚約を破棄なさるのですか?」
ラオフェントとフィリネグレイアは両家の繋がりを強めるために幼い頃に婚約を交わしていた。来年にはフィリネグレイアは女学校を、ラオフェントは国立学院を卒業し、その半年後に結婚する予定になっていた。
久しぶりにオイネット家にラオフェントが訪れ、フィリネグレイアは彼と一緒に父親から2人の婚約を破棄することを告げられた。
ラオフェントと結婚するのだと思っていたフィリネグレイアは心底驚いた。
理由を聞けば、ラオフェントが神官になるためだという。
ラオフェントの実家は長年優秀な武官を輩出してきた名家で、彼も幼い頃から国軍に入ることを目標に、日々鍛錬に励んでいた。
だというのに、卒業を目前にして武の道から外れ、神に仕える神官になると言い出したラオフェントの変化に、フィリネグレイアは大きく戸惑っていた。
何が彼を変えてしまったのだろう。
それが何なのか、知らなければならないような気がして、フィリネグレイアの胸はざわついて仕方がない。
「うーん。どういえば納得してもらえるかな」
ラオフェントは苦笑を浮かべつつ、フィリネグレイアに伝えるべき言葉を探す。
「私たちはずっと、用意された道を歩いてきた。その事に不満もなく、自ら進んで差し出されたものを受け取ってきた。けれど、私は自分の進む先にあるものに対して、不満を持ってしまったんだよ。だから、私は別の道を選ぶことにした。軍に入るのではなく、神官になる道をね。」
ラオフェンとはしっかりとフィリアの目を見据えて言う。
分かっていたのに、彼からの今まで進んでいた道を否定する言葉に胸が痛んだ。
「ラオ兄様は、軍に入るのが嫌になったのですか?」
視線が揺れて、しっかりと定まらず、目の前に立っているラオフェンとを見ているはずなのに、フィリネグレイアは彼の姿がはっきりと認識することが出来ない。
声が震える。
「私との結婚も」
「フィー、君は私にとってとても大事な人だよ。婚約を破棄しても、それは変わらない」
フィリネグレイアも、婚約を破棄したくらいでラオフェントとの関係が崩れてしまうなどありえないと分かっている。それでも、長年フィリネグレイアの中にあった、彼との婚約は彼女を形作る柱の一つだ。それが奪われてしまうことに、彼女は恐怖を感じていた。
「私のわがままを君に押し付ける形になってしまうが、私はフィーにも自分で選んだ道を歩んでほしいんだ。フィーには多くの可能性が眠っている。それを私との結婚で潰してしまうのはとても惜しい。だから、君は今いる場所から飛び出して、外に目を向けてもらいたい。私と結婚して家庭を守るという、君自身が己に課した檻を壊して」
「ラオ兄様。その言葉は私の生き方を否定されているように聞こえるのですが」
「私はフィーに他の生き方にも目を向けてほしいと思っているだけだよ。そして、新しい道を歩めるだけの強さを君は持っているとも思っている。なんせ、私の大事な妹分だからね」
そんな言い方はずるいとフィリネグレイアは思った。
私だから大丈夫なんて期待をされたら、それに応えてしまいたくなる。自分の大事な人であればあるほど、彼らの好意を胸を張って受け止められる人間になるために。
深く息をはいて、心を落ち着かせる。
しっかりとこちらの目を見て話すラオフェントには迷いが無い。
ラオフェントは決意していしまったんだと、フィリネグレイアはようやく納得した。
もう、彼と共に歩む未来はないのだと。その事をフィリネグレイアは受け入れるしかないのだと。
「たまにはお会い出来ますか?」
「もちろん。しばらくは数年置きになってしまうだろうけれど、会いに来るよ」
ラオフェントの返答に、フィリネグレイアは笑顔を浮かべた。
婚約破棄の話をしてから初めてフィリネグレイアが素直に笑ったことに、ラオフェントは心の内で安堵の溜息をついた。
ラオフェントにとって、フィリネグレイアはとても大事な人だ。
幼い頃から彼女の双子の兄と共に多くの時間を共有してきた。
だからこそ、彼女が仕舞い込んでしまっている感情にも気づいた。
せっかく生まれた彼女のその思いを、彼女自身が認識せずに押し殺してしまっている事にも、気づいてしまった。
どうしたものかと悩んでいた時にもらった誘い。
良い機会だと思った。
フィリネグレイアは外の世界に目を向けるべきだ。彼女が自ら入っている箱の中から出れば、きっと驚くほど多くのものを吸収して大きく成長するだろう。
それは決して幸せなことばかりではなく、辛く悲しいことも多くあるだろう。苦境に立たされる彼女を守る役割を、自分はもう果たせない。なにより、自分よりも彼女の世界を守ってくれる存在をラオフェントは知っている。
自分との未来よりも、必ず彼女は幸せになれる。
この時のラオフェントは、そう、確信していた。
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